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「夜と霧」(フランクル著)の名言を4選ご紹介!「人生に問われる」や生きる意味を考察

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V・フランクルは第2次世界大戦下のヨーロッパでナチスの強制収容所を体験し、それをもとにした回想録である「夜と霧」を著述しました。

「夜と霧」では人間の存在意義や自由についての哲学的な考察を交えながら、極限状態での生き方や心理を描き出し、人間の選択肢や責任についても問いかける名著です。

過酷な状況の中でも何が生き抜く決意をさせ、希望のない状況でいかに人生に肯定的な意味を見出すことができるのか。

フランクルの「夜と霧」からの名言は、人生の意味や逆境に直面した際の対処法について考える上で深い洞察をもたらしています。

本書から名言を4つ選び、生きる意味や一見不思議な問いかけになる「人生に問われる」を考察したいと思います。

 

「夜と霧」の名言を4選

「夜と霧」には多くの名言がありますが、私が本著を読み感銘を受けた言葉を4つ選びご紹介します。

  • 「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」
  • 「生きることが、わたしたちから何を期待してるか」
  • 「わたしたち自身が人生の問いの前に立っている」
  • 「人生にイエスと言う」

これらの名言は、フランクルの経験を通して、生きる意味や人間の内なる強さについて深い洞察を提供しています。

人間という存在は、「自分のため生きる」時よりも、「愛する者のため生きる」時や「使命のため生きる」時の方が強い存在になります。

愛する者や使命は、その人に「何があっても生き抜く」ことを決意させるからです。

それでは、4つの名言を見ていきましょう。

 

「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」

この言葉は、ドイツの哲学者ニーチェの著書『人間、あまりに人間的』の中で述べられたもので、「夜と霧」のなかでフランクルが引用したものです。

この言葉は、過酷な強制収容所で生き抜いた人々の心情を的確に言い当てています。

私はこの言葉に非常な感銘を受けたため、名言の第一に取り上げています。

ニーチェは、人生には苦しみや困難がつきものであると考えていましたが、それらに打ち勝つためには、自分の存在意義や目的を見出すことが重要だと主張しました。

人間は困難な状況に直面することは避けられませんが、目的や意味を持ち、自らの存在に意義を見出すことで、逆境にも立ち向かう強さを持つことができるのです。

つまり、「生きる理由を知っている人は、どんな困難な状況にも耐えることができる」ということです。

このニーチェの名言は、フランクルが強制収容所で生き延びる中で身をもって体験した洞察であり、「自分自身の人生の目的を見出し、なぜ生きるのかを明確に理解」していたことが、苦境に直面した際に耐える力を生み出したと語ります。

この短い格言は非常に強い力を持ち、自分の人生に対する姿勢や価値観を見つめ直すきっかけになりえます。

 

「生きることが、わたしたちから何を期待してるか」

初めてこの言葉を見た時は「不思議な問いかけだな」と思い、意味がよく分かりませんでした。

「わたしたちは、生きることに何を期待しているか」これが普通の問いかけで、「わたしたち」と「生きること」が逆になっている、変な質問だなと思いました。

当時の私はこう思ったのですが、考えてみると強制収容所で「あなたは生きることに何を期待しているか」と問いかけても、「何も期待できない、絶望しかない」という答えしか返ってきません。

すると、この「生きることが、わたしたちから何を期待してるか」は変な質問ではなく、自分自身の存在を根本から180度転回した問いかけになっています。

では、この根本的な転回とはどういうことなのでしょうか。

 

「わたしたち自身が人生の問いの前に立っている」

この問いは「夜と霧」の中心的なテーマになっています。

フランクルは「人間は自分の人生に意味を見出すことができる」という信念を持っていました。

しかし、収容所では人間の尊厳や自由が奪われ、生きる希望や目的が失われていきます。

そこでフランクルは、「人生に意味を与えるのは自分ではなく、人生そのものである」という考え方にたどり着きます。

つまり、「人生は自分に何かを求めているのであり、自分はその問いに答える義務がある」のだということです。

この考え方は、地動説が天動説にパラダイムが変わったことに由来するコペルニクス的転回と呼ばれ、フランクルは人間中心説から人生中心説へと180度パラダイムを方向転換しました。

「人生に問われる」とは、自分の人生に対して責任を持ち、その意味を見つけ出すことです。

私の感想を付け加えると、「人生に問われる」とは、「人間に命と生きることを与えた神に問われる」ことに他なりません。

神から「私はお前に命と生きることを与えたが、強制収容所の苦境に心が折れ、絶望のなかで死んでいくことがお前の人生か?」と問われているのです。

神のこの問いかけは、苦境に生きる者への叱咤激励と思えます。

どんな苦境にあっても真に生きる意味を探し、人生からの問いかけに対して、神の問いかけに対して自分が生きることに積極的な意味を見出していく。

これが、フランクルの言う「人間は生きる意味を見出すことで、どんな苦難にも耐えることができる」ということであり、「生きることがわたしたちから期待しているのは、自分の人生に対する責任を果たし、自分の存在に価値を見出すこと」になります。

人には自分だけに与えられた使命があり、それを達成することで人生に意味を与えることができます。

フランクルは強制収容所での悲惨な状況の中でも、自分の人生に意味を見出そうとする人々の姿を見て、人間は外部の環境に関わらず自分の内面に精神的な自由と尊厳を持つことができること、生きることの意味を探求することの重要性を確信しました。

 

「人生にイエスと言う」

「夜と霧」の中でフランクルは「人間はあらゆることにかかわらず─困窮と死にかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても─人生にイエスと言うことができるのです」と述べています。

この「人生にイエスと言う」という表現は、フランクルが生きる意味を見出す際に用いた言葉あり、人生に対して肯定的であること」、「人生に対して責任を持つこと」、「人生に対して希望を持つこと」を意味します。

この言葉は、フランクルの哲学に基づいた、人間の尊厳と自由を守るための態度だと言えるでしょう。

彼は、生きることに対して積極的な姿勢を持ち「イエス」と言い続けることで、人生の困難にも立ち向かっていけると説きます。

この表現は、人生の喜びや苦しみ、様々な経験に対して積極的な姿勢を持ち受け入れることを意味し、人生が与える様々な試練にも前向きな姿勢で対峙し続けることが大切だというメッセージが込められています。

 

生きる意味とは何か?

「生きる意味」とは、人間が自分自身に問いかけるものであり、一般的な答えは存在しません。

フランクルによれば、人間は自分の置かれた状況や遭遇する出来事に対して選択することができます、つまり

  • どのように反応し
  • どのように行動するかを選択することができ
  • その選択によって人間は自分の人生に意味を与えることができる

フランクルは、強制収容所での苦難の中でも、自分の人生に意味を見出すことができた人々を例に挙げています。

彼らは、「自分の信念や理想を守り、他者への愛や責任感を持ち続け、自分の運命に対して肯定的な態度を取ることができた」人々であり、このような人々が「生きる意味」を見つけたと言えると述べています。

そこからフランクルは「生きる意味」を見つけるためには、3つの方法があると言っています。

  • 何かを創造することや何かに貢献すること
  • 自然や芸術などの美しいものや、愛する人などの価値あるものに出会うこと
  • 苦しみや困難に直面したときに、それらに対する態度を変えること

フランクルは、これら自己の内面の積極的な反応や選択を通して、人間は自分の人生に意味を見出すことができると主張しています。

そしてフランクルは、「生きる意味とは、生きることに限定されず、苦しむこと死ぬことに裏付けされた総体的な生きることの意味だ」と総括し、どんなに苛烈な苦境にあっても「自己の内面に目を向け、生きる意味を見出す」ことの重要性を強調しました。

 

まとめ

フランクルの「夜と霧」からの名言は、人生の意味や逆境に直面した際の対処法について考える上で深い洞察をもたらしています。

私も辛いことや苦境に陥り、心のあり方が低くなってしまったとき、この「夜と霧」を手に取り名言や傍線を引いた箇所を読み直すことがあります。

自分は人生から常に問われている存在であり、生きること、苦しむこと、死ぬことすべてを含んだ総体的な人生からの問いかけに対して、心の内面を見つめ直し具体的な答えを出していかねばならない。

読んだ後は、低くなっていた心のあり方が立ち直ったように感じます。

「夜と霧」はぜひ一読してほしい名著です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。